左巧玲
摘要:误译是近些年来翻译界研究的一个热点问题,目前国内谈论误译的文章或著作大多是从英汉、俄汉翻译的角度来论述的,从日汉角度探讨误译问题的文章也不多,从汉日角度探讨的就更是少之又少了。日本对于误译的研究也是从英日的角度进行的,鲜有汉日方面的误译研究。而且,对于史铁生小说日译本中出现的误译的研究尚属空白。本文尝试对史铁生小说日译本中出现的误译进行分析和研究。
关键词:误译;理解;表达
很多学者都曾针对误译发表了自己的观点。误译是“对原著错误的翻译,在思想意义上或在文字上背离了原文,通常是由理解或表达不当造成的”(方梦之,2004:7);“误译指的是译者对源语的不理解、理解有误或是由于两种语言文化背景的不同而形成的对原文的错误翻译”(邹卫宁,玄忠波,2006)。本文作者对于误译的认识与方梦之是一致的。本文尝试对史铁生小说日译本中出现的误译进行分析和研究。
例1、场院上的婆姨、女子们嘻嘻哈哈地冲我囔:“让老汉儿唱个《光棍哭妻》嘛,老汉儿唱得可美!”
译文:庭先で働いていた嫁さんや娘たちが、笑いさんざめきながらわたしに向かって叫んだ。「じいさんに『ならず者妻を泣かす』をうたわせて。それはすてきだからさ」
“ならず者”指流氓,无赖,破落户。“光棍”:地痞,流氓;单身汉,没有妻子的成年人;好汉,聪明人。很明显,原文中的“光棍”取第二种意义,并非第一种,所以这是由于一词多义引起的翻译不当。应当准确判断原文的意思,再选择译语中语义相对应的词语进行翻译。
例2、他说他给刘志丹抬过棺材,守过灵。
译文:かれは劉志丹[一九〇三~一九三六年。陝北における紅軍パルチザンの創建者]のために棺桶をかつぎ、野辺おくりをしたという。
“野辺おくりをする”指送葬,与守灵是两个概念,是两件不同的事情。古人认为人死后三天内要回家探望,因此子女守候在灵堂内,等他的灵魂归来。每夜都有亲友伴守,直到遗体大殓入棺为止。守灵是子女和其他亲人守在逝者的灵床,灵柩或灵位旁。原文是说破老汉给刘志丹这么有名的人物守过灵,这体现了当时破老汉的身份不一般,也才能与后文中村里人说破老汉吹牛相呼应,而送葬则是大家都有可能参加的事情,就不能突出破老汉吹牛。
例3、传说垃圾站发现了好几根金条。街道积极分子们怀疑是我们院里的人扔出去的,一是因为我们院离垃圾站近,二是因为我们院里除了八子家成份好,其余的都是黑九类。
译文:ごみ捨て場で金の延べ棒が何本も見つかったといううわさが流れた。町内の積極分子たちは、わたしたちの院内の人が投げ捨てたのではないかと疑った。ひとつは、わたしたちの院がごみ捨て場に近いこと、ふたつは、わたしたちの院では八子の家の階級成分がよいのを除けば、そのほかはすべて黒九類だったからである。
汉语“成份”的意思是:?构成事物的各种不同的物质或因素。?根据个人在一定时间内主要生活来源的性质划定的阶级属性。但是,日语的“成分(せいぶん)”的意义如下:?ひとつのものを構成する部分となる要素?化合物や混合物を構成している元素· 物質?一つのベクトルを空間の各座標軸方向のベクトルの和として表すとき、その各ベクトルの大きさ。由此可以看出,汉语“成份”与日语“成分(せいぶん)”的意义是不一致的,有出入。从原文来看,“成份”可以译为“階級出身”。
例4、“小脚儿”终于止住了笑,却打起嗝逆来:“呃!刚才这老东西说我,”她戳了夏大妈一指头。
译文:"小足"はようやく笑いやんだ。が、こんどはしゃっくりが出た。
「ヒック、いましがたこの老いぼれのいいぐさじゃ」。彼女は夏おばさんの頭をこづいた。
指头:是指“手指头”,是ゆび,而不是“頭(あたま)”。可以改译为“彼女はゆびで夏おばさんをこづいた”。
例5、“您还抽点什么不?”白老头眯缝起眼睛凑过来,脸上又换了一副恭维的神情。
译文:「なにをお吸いになりますか」
白じいさんが目を細めて、神妙な表情をつくった。
神妙:?人の知力を超越した現象。不可思議なこと。?けなげ。殊勝。奇特。?すなお。おとなしいこと。而原文的“恭维”是指“奉承”。而“神妙”的三种意义都不表示“恭维”。可以改译为“ご機嫌をとりそうな表情をつくった”。
例6、每回家里给我寄钱来,破老汉总囔着让我请他抽纸烟。
译文:破じいさんは、わたしが帰省するたびに金を預けて、紙巻きたばこを買ってくれるようねだった。
“わたしが帰省するたびに金を預けて”意为“每次我回家存钱”,这是明显语义上的误译。译者很有可能是望文生义,即理解成“每(次)回家里,给我寄钱来”。
例7、“这两捆柴,敢是给亮亮妈砍的吧?”“谁情愿要,谁扛去。”这话是真的,老汉穷,可不小气。
译文:「このふた束の柴は、だって亮亮のお袋に刈ってあげたんだろうに」
「心底欲しい人のためなら、だれだってかついでいってやるだ」
この言葉にうそはなかった。じいさんは貧しくても、了見は狭くない。
小气:吝啬;胸襟不宽,气量小;气魄小。原文取第一种意义,而译文显然是取了第二种意义。
例8、偶尔有拦羊的从山梁上走过,冲我呐喊两声。
译文:たまたま尾根から羊飼いが降りてくることでもあれば、わたしは衝動的に大声をあげる。
译者依然是只看了字面意思,“冲”理解成了“衝動的”,动作的发出者也弄错了,原文是“拦羊的人冲我呐喊两声”,并非“我冲动地呐喊两声”。
例9、“我对他说这是陕西省通用的,在北京不能用,破老汉不信,说:‘咦!你们北京就那么高级?我卖了十斤好小米换来的,咋啦不能用?!我只好带给你。破老汉说你治病时会用得上。”
译文:「ぼくは、これは陝西省で通用するもので、北京では使えないっていったんだけど、破じいさんは信じないんだ。そして、ふん、おまえらの北京がそんなに高級なのか、これは上等な粟十斤を売って取り替えたもんだ、それがなんだって使えねえんだっていうのさ。持ってくるよりなかったよ。きみの病気が治ったら役に立つはずだって、じいさんはいってた」。
联系前文,可知“你治病时会用得上”意为:破老汉认为在作者“我”治疗疾病时,他卖了十斤好小米换来的粮票能派得上用场,即能拿去给医生送礼,而译文则是“如果你的病治好的话”,这样的译文也会让读者丈二和尚摸不着头脑。
需要说明的是,这种在译文中的“找茬”,并不是为了否定译者的翻译成果,只是借助分析史铁生小说的日译本中的误译现象,希望类似的问题能引起译者们的重视,实现减少误译的目标。
参考文献:
[1]史铁生.记忆与印象[M].北京:北京出版社,2004.156-174.
[2]松井博光,野间宏.现代中国文学选集3史铁生[M].东京:德间书店,1987.7-37.
[3]史铁生(2007).『史铁生作品精选』[M].北京:华夏出版社,55-67.