邱 晨 段克勤
(北京林业大学,中国 北京 100083)
日本語の近代化がいつ始まったかについては、研究者によって見解が異なるが、本格的な近代化は、やはり明治期以降と見るべきであろう。それを促したのは、欧米文化との接触ということができる。欧米の文化に触れることによって、人々は日本語について考え、日本語がいかにあるべきかについて模索した。その具体的な現れが、言文一致運動や国字問題や外来語などについてのさまざまの提案である。
十六世紀ごろは全世界の大航海時代における 「冒険の時代」から「征服の時代」へと移行した時だ。欧米の言葉が日本にはいってきたのはその時のポルトガル語やスペイン語が最初であるが、その後オランダ語も入ってきた。明治期になると英語が多くなり、フランス語やドイツ語も取り入れられた。その結果、江戸期で使われていた外来語がすたれ、新しい外来語と交替するものも交替した。例えば、ドンタクに代わってサンデーが使われるようになり、バッテラはボートと交替した。もっとも早く普及したのが、ヘボン式の綴りである。ヘボン式と呼ばれているが、この綴り方を考案したのはヘボンではなく、羅馬字会で考えた方式を、ヘボンが「和英林集成」の第三版(明治十九年)で採用したことから、ヘボン式と呼ばれるようになったのである。この綴り方は、のちに改訂されて、標準式と名付けられた。一方、田中舘愛橘は五十音図を基に、日本式と呼ばれるローマ字綴りを考案した。この綴り方は、日本人には使いやすいが、実際の発音と離れる場合があって外国人には分かりにくいという難点があった。そこで、この二つの綴り方を折衷するものとして、昭和十二年に内閣訓令で訓令式と呼ばれるローマ字の綴り方が告示された。具体的に言えば、ローマ字は、戦後になって小学校の教育に取り入れられることになった。初めは訓令式、日本式、標準式のいずれによて教育しても良いとされていたが、後に単一化が図られ、昭和二十九年「ローマ字のつづり方」が告示された。
この時代の共通語もすでに今日の共通語の母胎と思われるものが、存在していたと考えられる。共通語の基になったものとしては、大勢の人を前にして話す時の言葉と改まった席での対話が考えられる。
西邨貞が書いた「幼学読本」は他の教科書に多く見られる「デアリマス」を代わりに、「デス」が使われており、「ダ」で終止する例もかなり見られる。対話の例だけではなく、説明の場合も談話体から口話体へと移りつつあることを示していると言える。教科書はやがて明治三十七年から国定教科書となるが、第一回の国定読本ははっかりと、標準語による口語文が出来上がった。
日本語をどのように表記すべきかは、明治期以降の大きな問題となった。その発端が、前島密の「漢字御廃止之儀」とよばれる建白書である。その中で、前島が人々が学問をする上で妨げになる漢字を廃止して仮名を用いるべきだと提出した。
漢字の習得が教育における障害となるとして、それを如何に解決すべきかについては、大きく二つの方向がある。一つは、漢字を全て廃止してしまおうというものである。もう一つは、漢字の数をできるだけ制限して、漢字を習得するための負担を少なくしようとするものである。現在は、後者のやり方がとられているわけである。前者の場合は、次の三つの立場がある。A平仮名か片仮名を用いる。Bローマ字を用いる。C新しい文字を採用する。平仮名を専用すべきだとする団体には、明治期に「かなのくわい」があった。大正期に入ると、片仮名を専用すべきだとする人たちが現れ「カナモジカイ」が出来た。「カナモジカイ」が草案した片仮名の文字は、今日コンピュータによって処理される文書で用いられている。
まず、作家の作品によって、声をめぐる問題で、方言から童話、東北話、普通話までだんだん定めに来った。代表作は宮沢賢治の「注文の多い料理店」、国語学者である上田万年の「国民文学を興さん」、安田敏朗の「国語と方言のあいだー言語構築の政治学」などだ。それから、普通の選挙法がとりもなおさず、野間清治の「雄弁」は普通の選挙に通じて演説の日本語を創り出そうという言葉を書いてある。階層化される日本語は川端康成の「伊豆の踊り子」でよく表され、植民地の日本語がだんだん決まられた。
1929年にニューヨーク証券取引所で株価が大暴落したことを端緒として世界中で経済不況が起こり、ブロック経済体制、世界恐慌が普及していきた。ドイツでナチスが政権を獲得し、ポーランド侵攻した。イギリスとフランス、ソ連も参戦し第二次世界大戦が勃発した。このような背景で、日本語も時代のマークが強く残っていた。「人民戦線」や「ルンペン」や「持てる国と持たざる国」、「総親和」などのような単語がこの時代の流行語になった。第二に、戦前の日本人にとって、教育勅語は聖書、コーランなどに匹敵する文献だったといっていい。太平洋戦争が始まると、開戦の十二月八日を記念して毎月八日が「大詔奉戴日」とされ、宣戦の詔書が朗読された。第三に、社説も時代の特徴をつけた。戦中に多いものは、まず、「皇国、皇紀、肇国」などの皇国思想に関連したものである。また、当然戦争に関した単語がある。「赫赫たる」は皇軍の戦果にかかわる形容である。「大陸、東亜、大東亜」は「民族」を解放して大東亜共栄圏を「建設」するという「思想」によって愛用された。戦後に特徴の多くは、時代背景から説明がつく。「責任、意見、見解、決定」などは、戦前に「意味、自覚」が多かったのに対応するかもしれない。
先述したように、近代化した日本は西洋文化と積極的に接触して、いろいろな外国のことを吸収した。しかし、日中戦争から第二次世界大戦にかけて、日本は交戦国となったアメリカやイギリスとの対立がだんだん深くなった。1940年に入ると、英語が「軽佻浮薄」と位置づけ、「敵性」にあたるものだとして排斥が進んだ。だから、ウィキペディアで敵性語とは、敵対国や交戦国で一般に使用されている言語ということである。筆者にとって、敵性語は国家の法律に禁止されたものではなく、戦中で高まっていくナショナリズムに押されて自然発生的に生まれた社会運動だと思う。だから、敵性語は生活上あらゆる側面を含まれたはずだ。教育、軍事、スポーツ、タバコ、交通、雑誌、音楽など、いろいろにある。具体的に言うと、教育方面で英語教育は廃止こそされていないものの縮小されており、中学校や女学校では英語が必修科目から選択科目へと変更され、授業数も大幅に減らされていた。スポーツ方面で、敵国アメリカの国技である野球の関連用語も徹底した英語排除が行われ、「タイマ」―「停止」、「セーフ」―「安全、よし」、「ストライク」―「よし一本、正球」などが変更しにいった。しかし、このような「敵性語」は圧力を受けた一般民間人や民間団体による自己規制によって排斥された、主に対米英戦たる太平洋戦争当時の戦意高揚運動のひとつにすぎない。だから、戦争が終わったあと現在まで使っているアメリカの単語がないわけではない。例えば、ゴルフ、スキー、スケートなどが挙げられる。
太平洋戦争において、日本はアメリカだけではなく、中国とも敵対したが、中国から伝来した漢字表示が目立った排斥がないけれども、漢字政策が少しだけ変わりにきった。1921年6月、原敬内閣の手によって「臨時国語調査会」が作られた。まず、漢字表選定の根拠と併せて漢字表作成の目的が学校教育でけではなかったことを語っている。その後、「漢語整理案」は1926年7月7日から1926年にかけて官報に発表し、さらに「常用漢字表ノ修正」と「仮名遣改訂案ノ修正」を発表した。1934年12月12日、「臨時国語調査会」は「国語審議会」に改組された。「国語審議会案目録」によると、「常用漢字表」の再検討が新聞社などの活字使用頻度調査などを含めて詳細に行われていることをうかがい知ることができる。
植民地教育では当初は単にことばを教える「技術としての日本語教育」たらざるをえなくても、「思想としての日本語教育」も同時に希求されていたことを忘れてはならない。例えば、「朝鮮における朝鮮人の教育」を定めた朝鮮教育令で初等教育である「普通教育は普通の知識技能を授け特に国民たるの性格を涵養し、国語を普及することを目的だ」(第五条)とあり、知識と国民性と国語の教育が目的とされている。具体的な教育政策などでの国語による「同化」の分析については、種々の専門書で読めるので割愛する。簡単にいえば、制度的に存在する種々の障壁を見えなくさせるために、文化的に帝国臣民として統合しようとした、ということである。
国語調査委員会が1903年に全国規模できわめて不十分な形ではあるが口語法、音韻を調査し、その業績のひとつとして「口語法」を完成させた。その意図は、現在話すべきことにも標準を設定しなくてはならない、というものである。さらにいえば、方言ではなく「口語」には「法」、つまり規則がなくてはならないという前提のもとでの編纂である。話しことばに基準と法則を見出し統一することは、植民地での国語教育と深く結びついたものであった。
しかしながら、植民地の人たちはいったいどういうふうに漢語を読むのか。1930年代の後半に残した村上廣之という人に注目した。1936年発表された「朝鮮における国語純化の姿」によると、朝鮮人の話す日本語のなかの漢語が日本漢字音ではなく朝鮮漢字音で発音されたのだと言った。どの程度実証的なのかはわからないが、村上の結論としては、「周知の度合」が増すと、朝鮮語読みになるという傾向があるということだ。日本語の音として流入したとしても、漢字で書かれたものが浸透すると、日本語音は朝鮮語音に追いやられるということのようである。漢字を共有するがゆえに日本語音·訓と朝鮮語音のあいだで混乱し、なおかつ文字表記を経ない音声として受容していく日本語とのあいだでも混乱が生じているといった状況を、村上は描き出している。
戦後、「民主化」で、言葉についても、今までのような善悪のタガがとれ、使いやすい方言で何が悪いか、という開き直りも見られた一方、生身の疎開児童の都会風な洗練さ、知識の豊富さへのあこがれもあって、もともと「良い言葉」として植え付けられていた標準語への志向、評価が内面的にはさらに進んでいった。方言は、もはや悪い言葉ではないが、「恥ずかしい言葉」という感覚は拭いきれなかった。時代は下るが、昭和三十年代後半からの、都会への集団就職では、もはや、方言から、良し悪しのベクトルが、理論的にはずされたはずであったが、むしろ、都会との接触が密かになったため、自己の方言についての恥ずかしさ、コンプレックスが増大した。それに、言語の優劣自体でない、出身地の文化、生活程度の低さの象徴となる方言への負の思いも、都会の高度成長とともに一層深刻になったという事態にも至っている。「標準語」の正誤、善悪、国家、中央集権、強制、というイメージから脱却した、この「共通語」という命名と概念は、戦後の民主主義、自由主義の思想、教育方針にマッチするところもあったようで、早速、教育現場でも歓迎され急速に広まりだした。今まで、安易に、「標準語」と使っていたが、考えてみると日本には、「国家」が決めた標準語というものがあるのか、とりあえずは共通語として対処しよう、という暫定的な態度もあったようである。
「当用漢字表」と「現代かなづかい」が共に1946年11月16日に内閣訓令·告示として公布されたのは、このとき、正確に言えば「日本国憲法」が公布されたからにほかならない。「当用漢字」だけを使用するとなると、使用できない語彙が多く生まれてくる。それに対して、後に再建された「国語審議会」、文部省、内閣法制局、新聞各社、放送局、学界から様々な案が出され、大量の言いかえと書きかえによる新語·新表記があらゆる活字の文字面にあらわれることになった。敗戦後の日本という国家の「最高法規」である「日本国憲法」を頂点にした、「日本語」の正書法を、国家の国字施策として「当用漢字表」と「現代かなづかい」に基づいて、一挙に末端まで浸透させていくうえでは、またとない絶好の機会だったのである。結果として、アメリカ教育使節団による「ローマ字書き」教育の勧告に対して、きわめて拙速な形で行われた日本語の簡略化方策としての、「当用漢字」と「現代かなづかい」は、明治維新以降の近代日本で一度も行われたことのないような「国策」として、均一的な「漢字かな交じり文」の国家的正書法を、「日本国憲法」から全ての法律に浸透させ、新聞、教科書といった国民的なメデイアの文字面を統一することに成功したのである。
近代化の日本語と太平洋戦争前後の日本語の変化と問題を上に述べたようである。では、現在言葉の変化に関するものを少し検討してみよう。まず、時代背景の変化との関わりが重要だと思う。例えば、第二次世界大戦を背景に、明治維新したあとずっと使われた外来語の一部分は敵性語になっており、人たちの日常生活で少しずつ使わなくなった。第二に、政治との関わりも大切だ。「当用漢字表」や「現代かなづかい」や「常用漢字表」などは、全部国家の官方の告示によると、何回修整したあと、定着したものだということである。第三に、グローバリゼーションも大切だと思う。みんな知るように、グローバリゼーションにつれて、国家と国家の間の接触が多くなり、新しく出てくるものや外国から流入したものも多くなりそうだ。当然、旧事と古い言葉もだんだん失くなった。
[1]http://ja.wikipedia.org/wiki/16%E4%B8%96%E7%B4%80[Z].
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