日本古代における七夕風俗

2015-01-01 09:04:07畅宝仁嘉兴学院外国语学院
大陆桥视野 2015年24期
关键词:信仰日本文化

畅宝仁/嘉兴学院外国语学院

日本古代における七夕風俗

畅宝仁/嘉兴学院外国语学院

本文通过对日本古代“七夕”习俗的基本情况及其产生过程的考察与分析,探讨日本传承接收中国文化的基本态势。

日本;七夕;习俗

はじめに

「七夕」は日本においても中国においても鮮明的な特色を持つ民族節句として昔から存在してきた。本文は主に日本古代における「七夕」風俗の基本的な形態及び発展過程を考査分析する上で、日本民族がいかに中国文化を受け入れてきたその基本的な態勢を検討する。

1.中国文化を吸収した「七夕」

紀元7世紀、唐王朝はアジア各国の政治、経済、文化の中心となった。中国の先進文化を習うために、公元607年に遣隋使の小野妹子をわが国へ派遣した。紀元710年、日本当時在位の天明天皇は帝都を飛鳥(あすか)から平城京(今の奈良市内)に移した。この時期日本から中国へ派遣した遣唐使の規模が大きくて、遣唐使の全盛期と言ってもよい。遣唐使及び跡をついた留学生、僧侶たちは唐朝から習った先進文化を日本へ持ち帰っただけでなく、当時の中国の風俗習慣をも日本に紹介した。

七夕風俗はまさにこの時期日本の宮廷活動に現れたのである。日本史料『大日本史』の記載によると、天平六年(734年)七月七日、天皇は相撲の演技を観賞した後でその場にいる文人たちに「七夕の詩」を作らせた。これは日本朝廷が中国の「七夕」を日本宮廷の儀式にした始まりとなった。天平勝宝七年(755年)の七夕の夜、天皇は牽牛、織女を祭るために清涼殿で机を置いて、この上で瓜と果物も供し、明るい蝋燭もつけた。当時の儀式の過程は『開元天宝遺事』に載せた楊貴妃が七夕華清宮を遊覧することとほぼ同じである。日本奈良時代の正倉院は今までも中国の文物を数多く残して置いた。中には「七つの穴がある針」と言われる針道具が特に目立っている。また、中国現存最も古い行政法典『大唐六典』には「中尚書」が七月七日に「七つの穴がある金細針」を献呈することについても記載があった。これらのことから当時日本宮廷の行事の中で、中国の風俗への模倣はそれほど細かいのがたやすく分かるようになった。

2.発音が独特な「七夕」

しかしながら、日本の「七夕祭り」は完全に中国「七夕」風俗の複製品であると言ってもいいのか。自分自身独特の内包がないのか。われわれはまず「七夕」と言う発音の中でこの点を捜し求める。もし常用日本漢字の「音読」のとおりに読んだら、「七夕」の読み方は「しちせき」であるはずだが、「訓読み」のとおりに「たなばた」である。「たなばた」と言う語は最も早く現れたのは日本の『古事記』である。当時は単純に「棚機」の「訓読み」として現れたので、未だ牽牛、織女星と一つの繋がりもなかった。平安中期の辞書『和名抄』(931-938年)の中で初めて織女星と関連があるようになって、「機を織る女性,棚機津女」の「訓読み」となった。しかし、「棚機津女」もともとの意味は「清き水辺の棚作り機屋にこもり、神の訪れを待ちながら、神衣の布を織っている乙女である(折口信夫「水の女」『折口信夫全集』二)」。これを見て以下のことが自然に説明できる。「七夕」は古代の日本はただ中国文化を勉強して吸収したのみならず、日本文化の中で固有の純潔な少女が神を祭ると言う伝統信仰もあった。その二つの概念を互いに折衷して調和してから「七夕」の日本語の発音が形成されたのである。

3.日本社会の伝統信仰を溶け込んだ「七夕」

古代の日本には、「七夕」の前の日に商売人たちが街で声を張り上げて竹の切れまたは竹の枝を売り歩く風景は見られた。少女たちは自分の頭がよくて手も器用であることを願うために買った竹の切れに和歌或いは自分の祈りごとを書いて、それを五色紙と一緒に結んでいろんなところにぶら下げた。それは完全に中国の風俗の影響である。しかしながら、七夕の夜、人々はまた自分が書いたものを川に或いは海の中に入れた。そうするのは祈りごとの書いた紙が川に沿って流れることを期待したからである。この「七夕流し」と言われる風俗は日本にしかない。そのほかに、日本の東北地方には七夕の時に沐浴して七回も寿命が延ばせると言う説もあった。ある地域で人々は先祖の恩を報いるために「七夕」の時カメを洗って水を替える習慣もあった。東北から九州までこの日の夜、みんな提灯を川に入れたり人形を流したりという伝統もあった。

これらの民間風俗は中国歴史上の七夕の伝統的な観点から説明すれば、つじつまがまったくあわないだろう。日本固有の伝統信仰の中でこそ探求できる。日本の伝統信仰の中で、以下の伝説があった。「神の来臨を待ち、一夜を神に侍して過ごす聖なる乙女があり、これを棚機女といった。人里離れた水辺の機屋に籠り、神を待つ神女はそこを祭場として神を祭り、神の帰るのを送る日には、村人が禊を行い、或いは送り神に託して穢れを持ち去ってもらう。」

日本の「七夕祭り」は発音が独特だけでなく、中国の「七夕」風俗と異なった顕著な特色もある。特にその中の「神を迎える」、「神を祭る」、「神を送る」など日本社会の伝統信仰を反映しないものはない。また、「祓禊」の祭りもの(祈りごとが書いてある竹の枝は川に沿って流れていくこと)は日本の伝統信仰の中で唯一のものではない。日本の「三月三日雛祭り」、「お盆」など民俗習慣の中では自分自身の「穢れ」を特定的な「祭りもの」に移してそれを川に沿って流す風景も数少なく見られる。これでも分かるように、日本の「七夕祭り」は伝統的な中国の神話を基礎にして、日本古代神話の中で穢れへの反感と清潔への追求も溶け込んでいて、人々が清潔少女になりたい気持ちを織女に託すという働きがあるようである。

4.終わりに

牽牛、織女伝説は中国に源を発して、古代中国人の美しい愛情生活への憧れと追求を反映した。時間の経つとともに、牽牛、織女伝説は日一日に人格化、類型化されてきた。日中の国民に感動され、だんだん受けられた。また、日本人は伝統の中国の牽牛、織女伝説を受けた上で、中国から伝来した「七夕」を日本人固有の文化伝統、審美意識、固有の風俗と結び、牽牛、織女に新たな形態を与えた。日本人が牽牛、織女物語を受け入れて、さらに改めたその段階は文化の変遷過程という事実を反映している。

中日両国長長しい文化交流の歴史の中で、牽牛、織女伝説はただ僅かな例にすぎない。ただし、その具体的な例を通して、再び日本民族が外来文化を受ける時の基本的な態勢が表せる。日本民族は本土文化よりレベルが高い文化に対して、自分自身の理想と追及を溶け込んでから取捨を決めて、外来文化の優れている分を妙に本民族の精神土壌に移して、さらに新しい文化圏を形成した。それだけに、日本文化は古代から今まで絶え間なくあらゆる方面から広く引証しても、自分自身の強靭な生命力が少しも欠けることがない。

[1]完颜绍元.中国风俗之谜[M].上海辞书出版社,2002.

[2][日]中村新太郎著,张柏霞译。中日两千年[M].吉林人民出版社,1980.

[3][日]西角井正慶.年中行事辞典[Z],東京堂,1983.

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